活動の歴史

アビリティーズ運動の実証企業体
SINCE 1966 アビリティーズの福祉サービスはこうして始まった


1966年 保障より働くチャンスを

24歳の身体障害のある学生が起業を計画。
しかも障害者中心に6名で。
これがアビリティーズ運動の始まりであった。
逆境を乗り越え、会社は成長していった。

1971年 労働大臣との劇的な出会い

労働大臣に手紙を書き、お目にかかれた。
そこで障害者の雇用対策のお願いと提案をする。
4年後の1975年の10月、障害者雇用促進法が国会で成立した。

1972年 福祉用具ビジネスはどうやって始まったか

アメリカの障害者雇用の実情の視察を行い、福祉用具の効果と重要性を知り、海外のトップメーカーにコンタクトを取り訪問。
日本最初のリハビリ機器展示会を開催し、事業を開始する。

1999年~ アビリティーズの施設サービス、その目的と経過

施設を作っては両親に利用してもらい、意見を聞く。
3か所目でようやく母は、「これなら何とか住めるね」と言った。
両親が喜んでくれる、満足してくれる施設づくりが目標だ。

1966年
保障より働くチャンスを

 1966(昭和41)年4月、日本アビリティーズ協会の創立集会が東京・大田区で行なわれた。新聞やラジオ、テレビ等で集会のことを知った200人もの身体障害者の人達が、当日、会場につめかけた。

 会場の正面には、「保障よりも労働の機会を」の文字が大きく書かれていた。夕方4時から、実に夜9時過ぎまで、会場は熱気で満ち、興奮が続いた。

 最後にアビリティーズの綱領を、全員で朗唱するときのひとりひとりの顔には、力強い意気込みがはっきりと示された。もう、慈善や同情に甘えたくない。まず、自らのもてる能力を発揮してみようとの決意の顔であった。

からだに障害があってもできるはず

 創立集会の行なわれた前年、私が大学4年の時に、ある雑誌に私の短い投稿が掲載された。それは、自分の体験から「障害者であっても、積極的に自分の人生を展開していこう、やればできる」という内容の、ほんの400字程度の短い文章だった。

 私はもともと、自分が障害者であるにもかかわらず、ほかの障害を持つ人たちに対して、つとめて無関心を装ったり、無視したりする人間だった。歩いている道の向こう側から、障害者がこようものなら、まるで自分の歩く姿を鏡の中に見ているような恥ずかしさにおそわれ、意識的に視線を別のところに向けたりしていた。

 「自分は障害者でありたくない」との願いが、何事も精一杯やる強い意志をもつことになったものの、他の障害者達をみると「彼らだって自分の力でやればいいのだ」という冷たい気持ちしかそれまでの私にはもてなかった。

 この雑誌が発行されて、私は全国から5、60通の手紙を受けとった。ほとんどが同感、共鳴の内容であった。しかし、そのどれもが自分の力でやりたくてもできない人達だった。重度の障害で、友達どころか家族以外の誰とも話をする機会のもてない人達、人の目を気にして毎日、下積みの生活、自信をもてず、苦痛の中に日々を送っている人達の生活に、私は初めて触れた。

 連日送られてくるそれらの手紙を読んでいるうちに、私は次第に沈痛になっていった。たしかに、私の場合は障害も重い方ではないし、周囲の助けもあって自分の意志のままに、学校も何も普通に進んでくることができた。しかし、そんな私でも子供の頃、仲間はずれにされて、ひとり淋しく遊んでいたこと、運動会にも遠足にも参加できず、とり残されていたことを思い出した。

 また、高校を卒業して私は一時就職したのだが、その就職試験の際も「身体障害者は採用しない」との理由で、大手企業を含め約100社から、試験の前に応募書類が返送されたり、電話で問い合わせても断られたりした。そんな屈辱を、改めて思い出していた。

 届いた手紙を読み返して私は、障害をもつ者に必要なのは、何かに打ちこみ、そして自信をもって、積極的な生き方、人生を送ることではないかと思った。そして、最も有効なことは「仕事」であった。次第に私は障害者が中心になって働くことのできる職場について夢を描いていた。

アメリカ・アビリティーズとの出会い

 たくさんの授産施設も訪ねてみたが、そのいずれもが市内から遠く離れた山の中などにあった。中にいる障害者達は日曜日になると、はるばるバスで町にでて、ある者はたいしたこずかいもないのに、酒やパチンコに費やしていた。日頃の隔離生活がそうさせるのである。

 仕事も、内職程度の、どうみても採算のとれそうにもないものばかりで、入所者達は仕事に対する喜びをもっていない。行く所がないからそこにいる、という感じで、どうしても私の感覚とはあわなかった。

 私の考えていたのはもっと企業性の高いものであった。収容されるのではなく、勤務するのである。普通の社会人として、仕事を味わい、家庭をもつことである。

 明確な方法を得られないでいたとき、ニューヨークのアビリティーズ社を知った。国内で得られる情報をできるだけ集めた。

アメリカ・アビリティーズとの出会い

 あゝそのすばらしさ、私の求めているそのものが、そこにあった。私の願いに応じて、アビリティーズ社のヘンリー・ビスカルディ氏から分厚い資料とともに、あたたかいメッセージが寄せられてきた。

 アメリカ人にできて、日本人にできないはずはない。若い私はそう思い込んでいた。この頃には数人の同志もでき、次第に「日本アビリティーズ」創立の心づもりが固まっていった。そして1966年2月、大学の卒業試験が終了した翌日から私はこの準備に没頭した。

 4月の日本アビリティーズ協会の創立集会は大きな波紋を起こした。アビリティーズ精神に共鳴する人々は日本にもたくさんいた。

 協会創立後、私はすぐにアビリティーズの綱領を実証する会社づくりの準備を始めた。きれいごとは誰でも言えるが、言葉だけではだめだ。障害者にも能力のあることを、身をもって、会社の成功をもって証明しなければならない。

 同志の糾合、仕事は何をやったらよいか? 資本金は? 得意先は? 機械設備は?

 東京軽印刷工業会の理事であった、今は亡き小関謙六さんにお会いしたのはその頃である。小関さんの応援で、我々は印刷業に取り組むことになった。資本金は身体障害者の人たちを含め約20人が、小は1,000円からという資金をあわせ150万円でスタートすることになった。

からだに障害があってもできるはず

 1966年6月11日、会社は設立登記を完了、創立した。はじめの工場は東京・大田区の長屋工場の5坪ほどの一角で、それも天井もなく、風向きによっては、夏の暑さでトイレの臭気がたちこめるような所であった。10ヵ月の月賦払いで買った和文タイプライターが3台、小さな輪転印刷機が1台という零細印刷工場の誕生だった。印刷業について誰もズブの素人。社長の私でさえ印刷の工程、見積り計算すらまだ十分に知らない、無鉄砲な始まりであった。

 しかし、我々にとって、こんなスタートでも希望にあふれていた。とにかく、たとえ貧しくとも、我々自身の手で全てを用意し、全身全霊をもって取り組んでいける場所が欲しかった。すばらしい建物、寮施設、十分考えられた食事付きという国家の補助で養われる福祉施設には魅力を感じられなかった。どこまでも可能性を追及でき、自分を没頭させられる、そんな場を求めていた。創業に参加した者は両足マヒ、脳性マヒ者、手などの障害者で、それまで職ももてず家族の面倒になっていた人達であった。

苦しくても「自分達の会社」

 しかし仕事は一向にこなかった。連日、私は訪問を続けたが、最初の1カ月の売り上げは何とたったの16,000円であった。一方、技術をもたない従業員たちは、訓練に時間をかけねばならなかった。工場準備に要したいろいろの経費をあわせて、最初の1カ月間で50万円もの赤字がでてしまった。申し出のあった好意や応援を甘くみていた結果だった。

 私は営業戦略を変えた。あてにできない見込み客は捨て、確実に受注できるところに開拓の的を絞った。4カ月目頃からやっと100万円位の注文がとれるようになったが、技術の拙劣さは、業績を悪化させるばかりだった。注文が増えても力がないため徹夜が続く。それをカバーするため、また新たに障害者を採用する。ところが思うように仕事があがらない。悪循環が続いた。

 工場も家主等の理解が得られず1年間に4か所を転々とした。みじめな思いが時々私の胸をよぎった。1年後、会社の借金は400万円を越えていた。 しかし、1年半を経過した頃から目に見えて情勢が変わっていった。かみあわなかった歯車が、確実にまわりだした感じがしていた。

 とにかく、従業員たちの気迫はすごかった。私にとって、可能性を見いだすことができたのは、その協力があったからだ。「自分達の会社」という意識が満ちていた。

 3年を経過したとき、会社の財政状態はどうやら正常に回転するようになった。欠損を消し、差し引き純利益を計上、1割の配当を開始した。資本金は、その時まだ240万円であった。従業員15人ほどの小さなグループだったが、長い長い夜のゲリラ戦を通り過ぎてきたような気がした。

 会社の売り上げも年々ふえ、5千万円を越え、1億円を越えていった。従業員たちの給料も次第に昇給し、完全に納税者の立場になった。

 我々が創立した頃、身体障害者の社会復帰を「社会福祉法人」ではなく「株式会社」で試みることに、経験深い社会事業家の多くは注目しながらも、厳しい批判をあびせていた。小さなはじまりの運動であったが、アビリティーズの生き方は、少しずつ日本でも陽の目をみるようになってきたようであった。

1971年
労働大臣との劇的な出会い

 「保障よりも働くチャンスを」というスローガンを掲げ、株式会社という商業ベースの舞台で、からだに障害をもつ人々の雇用を進めようとする日本アビリティーズ社の試みは、創業以来困難の連続だった。

 会社設立前は理想に燃え将来計画は次々に浮かんだが、現実はそんな甘いものではなかった。学生時代に小さな会社の再建を体験したとはいえ、新たに事業を起こすことは、やはり24才の私にとってとてつもない無理があったと、今はつくづく思う。

 しかし、障害をもつ人々がただそれだけを理由に、一般企業で採用試験さえも受けられないという差別に屈してはいられなかった。厳しいビジネスの社会でも、やり方によっては同じように働けるし、企業間の競争でも必ず対等に闘えるはずだと信じていた。そのため日本アビリティーズ社を絶対につぶしてはならない、存続によってそれを証明することができると、日夜激しく行動してきた。それは今にいたるまで変わっていない。

 会社がなんとか立ちいける、という実感をもつまでには創業後3年を要した。しかし、それもひとつ波がくれば転覆する小舟のような存在であった。

労働大臣との劇的な出会い

 会社が危機的状況から少しずつ脱却してきた頃、私は本来のアビリティーズ運動の組織体「日本アビリティーズ協会」の活動を再開することにした。

「アビリティーズの集い」には高松宮両殿下がご臨席下さったこともあった。両殿下は会員の人たちと同じテーブルにつき、親しく言葉を交わされた。突然のお願いにも関わらず、演壇でスピーチも下さった。

 私は皇室の方々への対応の仕方を全く知らなかった。アビリティーズ活動の再開に協力下さっていた私の大先輩はあとで、「ごあいさつをお願いする時は事前に宮内庁にお願いするのが習わしです。また、お席は高いところで、うしろには金屏風を用意するものです」と、ご注意下さった。そのようなことは何ひとつできなかった私であるが、高松宮様は、自然な雰囲気で参加できたことを喜んで下さったそうだ。

 宮様はその後もアビリティーズの活動にご関心をお寄せ下さった。

 衆議院の最長老として活躍した原健三郎氏が労働大臣に就任された。昭和46年のことである。大臣就任に際して、ある週刊誌に「推薦する3冊の本」にアメリカ・アビリティーズの創業から成功にいたる物語、「敗北を知らぬ人々」を挙げておられることを知った。 私は早速、原大臣に手紙を出した。たくさんの会社から試験さえも拒否された私の体験、そしてアメリカに比べ日本の障害者雇用対策がどれほど遅れているか。私の情熱のほとばしるところを率直に書いた。ぜひ話を聞いていただきたい、と結んだ。

 驚いたことに、すぐに秘書官から、「大臣が会いたいと言っておられる。すぐにどうか」との電話をいただいた。短時間しかお会いいただけないものと思い、要約して内容の濃い話ができるように準備して訪ねた。私の話を聞きながら、原さんは大臣室に官房長、審議官、障害者雇用担当課長、係長といった人達を次々に呼び集められ、またたく間に大臣を中心とした10人程の会議が始まってしまった。

 私は、からだに障害があるという理由だけで企業が雇用しないことを当然と考えている世の中の「常識」の誤り、障害があっても誰もが何かしらの能力をもっていること、多くの障害者は慈善ではなく自立したいという願いをもっていること、年金や補助を受けることより納税者になることを望んでいる、と熱弁を奮った。大臣は、幹部の方々といろいろ意見を交わしておられたが、最後に「障害者雇用対策の見直し」の検討開始を幹部の方々に指示された。

 原労働大臣はその後、日米政府会議でワシントンを外遊されたとき、ニューヨークのアビリティーズ社を訪ね、創業者ヘンリー・ビスカルディ氏にもお会いになった。アメリカでの障害者の社会復帰の事情、そして米国アビリティーズ社の成功を目の当たりにされ、日本における障害者雇用政策についてその方向性をかなり確信されたようだ。

 ところで私が原大臣にお目にかかった折、大臣室に集まられた方々は、その後の約2~30年間、労働省の障害者雇用対策の分野で多くの制度改革とその推進のため大いに活躍された。道正邦彦氏、加藤孝氏、若林之矩氏はいずれものちに労働事務次官、雇用促進事業団理事長、日本障害者雇用促進協会会長、のちに内閣官房副長官になられ、日本の障害者雇用対策にたいへん貢献された。

障害者雇用促進法の大幅改正

 原大臣にお目にかかって4年後の昭和50年10月、国会で障害者雇用促進法の大幅改正がついに成立、翌51年4月施行された。これにより、一般企業に全従業員の1.5%(現在は1.8%)以上の人数の障害者を雇用することを義務づけた。未達成の場合には企業は納付金を支払うことになった。障害者雇用のためのさまざまな助成制度も導入された。企業に対する障害者雇用の責任はこれにより明確になった。

 日本アビリティーズ協会を創立してちょうど10年後、アビリティーズの活動を通して労働大臣に障害者雇用のあり方を理解していただき、基本的な法・制度の改革がなされたのである。原労働大臣にお目にかかれたことが、のちに大きな成果へと導いた。

 昭和41年6月の日本アビリティーズ社の設立記念会のときに、私は皆さんに次のように申し上げた。

 「日本アビリティーズ社のように障害者を雇用するための特別な会社が存在するようなことは本来あるべきではありません。どの会社も障害をもっている人をあたり前に雇用する社会のあり方こそ私たちの願いです。誰もが普通に企業で働け、日本アビリティーズ社が解散できるような社会の状況こそ私たちの目的とするところです。」

 障害者雇用促進法の大幅改正はアビリティーズ社設立の目的を実現する第一歩を意味するものであった。

1972年
福祉用具ビジネスはどうやって始まったか

障害者雇用促進法の制定

 ところで、労働省で障害者雇用促進法が始まり、私も時に関係担当課を訪ねた。労働省が新しい制度づくりに本気になって取り組んでいることを実感した。からだに障害のある人たちが一般企業で雇用される時代がまもなく来るような手ごたえがあった。

 しかし当時、障害のある人たちの実情といえば、ほとんどが家に閉じこもって生活していて、街になど出ていなかった。とくに重度の障害のある人たちは外出の手段も、機会もなかった。たまに外に出ても人々は振り返ってじろじろと見る。小さな子供を連れた母親は「お前もいい子にしていないとあの人みたいになるよ」とささやく。地方では障害をもつ人が家の座敷牢に閉じ込められていたなどということが時折、新聞等で報道されていた時代であった。障害をもつ人は社会の裏側で人目に触れぬようひっそりと生きていたのだ。

 労働省の新しい障害者雇用対策の方向は、次第に明らかになってきた。そうなると、次は障害をもつ人々を世の中に引き出す方法が必要となる。私は、先進的なアメリカの実情について調べることにした。昭和47年のことであった。

福祉機器の効果をアメリカで知る

 ニューヨークでは米国アビリティーズ社で、創始者ヘンリー・ビスカルディ氏からいろいろアドバイスをいただいた。

 慣れない長旅で疲れ、明日はようやく帰国の途につくという日の夕方、米国アビリティーズ社の玄関先でタクシーを待っていた私は、仕事を終え帰宅する電動車いすの中年女性に出会った。周りに誰もいなかったので、その女性が自分の車に乗り込んだあとその電動車いすを工場に戻すのを手伝うことになった。

 彼女の明るくはつらつとしたしぐさと物言いに私は何ともいえない清々しさを感じた。そして、車いすを工場の玄関に移動させながら、私はこの車いすがそんな彼女の一日の生活を支え、素晴らしい労働を可能にしていたことに気付いた。そういえばアメリカ滞在中の3週間、こうした電動車いすをはじめ、いろいろなリハビリテーション機器、生活支援機器が障害をもつ人達に数多く有効に使われていたのを見てきた。これが社会復帰、生活自立を可能にしているのだということを改めて実感した。私はその電動車いすをカメラに収め、アビリティーズ社を後にした。タクシーの中で私は快い疲労の中、静かな感動を覚えていた。

 帰国後、持ち帰ったいろいろな機器のカタログを携え、いくつかの医療機器会社に「障害者の社会復帰のためにこういう機器を製造、販売して欲しい」と依頼にまわった。ところがどこからも断られた。医療機器商社の老舗、本郷いわしやの現社長、古関伸一氏からは「車いすなどはレントゲンやベッドを買ってくれたら無償で差し上げています。買う人はいませんよ」と言われてしまった。つまり、商売の対象ではなかったのだ。

 「こうなったら我々がやらなければ」との想いが募った。私はアビリティーズ社を去るときに例の電動車いすの写真をとったが、それを頼りにメーカー名や住所を調べ、手紙を出した。まもなくカタログ、価格表が送られてきた。それはエベレスト&ジェニングス(E&J)社で、私はすぐに2 台の電動車いすを発注した。当時、電動車いすは日本ではほとんど見られず、東大病院のリハビリテーション部に同様のものが1、2台あった。面倒な輸入手続きを経てやっと届いたその2台には、すぐに買い手がついた。

福祉機器の効果をアメリカで知る

 これに気をよくして次は12台の注文を送った。しばらくしてE&J社からきた返事は「S商事が日本総代理店なのでそこから買ってくれ」ということだった。そこでS商事に問い合せたところ、さらにその先に総発売元があるという。そこに問い合せると「在庫はないので取り寄せるのに2カ月かかる」。さらに販売価格は、驚いたことに我々がメーカーから直接買った値段の4.5倍だった。再びE&J社に直接買いたいと依頼したが「前回はわずかだったので直接売ったが、契約上S商事以外には出せない」の一点張りだった。やむなくE&J社の車いすはあきらめることにした。

 そこで、海外の電動車いすメーカーを片っ端から探し、手紙を出した。3、4カ月ほどしてイギリスのビドル・エンジニアリング社の会長から「日本に行くので会いたい」との返事がきた。そして商談は成立、早速サンプルとして1台の車いすを買った。

 3日後、その 1台と東大リハビリテーション部から借用した古いE&J社の2台で、銀座の歩行者天国を行進した。「車いすの使える街づくりを」と書いた手づくりのプラカードを掲げ、車いすには私と、創業当時からの社員の結城邦子さんが乗り込んだ。結城さんは子供の頃から両下肢歩行障害者であった。ビドル社の会長、社長、そして本郷いわしやの古関社長も一緒に参加してくれた。

 この銀座での“行進”は、その夜のテレビニュースで紹介され、早速数台の注文が舞い込むことになった。また「街づくり運動を一緒にやりたい」という障害をもつ人たちからの手紙もいただいた。

 こうしてアビリティーズのリハビリ機器の取り組みは始まった。といってもまだ試験段階で、日本アビリティーズ協会員向けの機器の紹介、取次といったレベルであった。欧米の福祉先進諸国の機器情報を調べ、テスト的に輸入して試用実験を行ない、会員からの依頼があればそれを実費プラス経費くらいで提供していた。そして、こうした依頼は想像以上に早いペースで増えていったのである。

初めてのリハビリ福祉機器展

 昭和49年7月14日、日本アビリティーズ協会は東京の霞ヶ関ビル33階を借り切り、わが国初の「リハビリ福祉機器展」を行なった。これには元中央共同募金会の小野顕事務局長さんに随分とご協力をいただいた。日曜日の小雨が降る中にもかかわらず、3,000人もの人が押しかけた。隣の久保講堂の所有者の全社協さんにお願いして50台分の駐車場をお借りしたが、すぐに満杯になってしまった。

 日本最初の超高層ビルの設計者は、車いすの人たちがこの建物を利用することを想定していなかったようだ。会場は入口をはじめあちこちに段差があり、トイレも使えなかった。そういった不都合は多くのボランティアによって対応した。世界中から集めた珍しい機器に来場者は驚いた。この模様は翌日の朝刊各紙、NHKの朝のニュースでも報道され、問い合せの電話、手紙が全国から寄せられた。

 日本アビリティーズ協会がテスト的に約2年間にわたり行なってきた会員へのリハビリ機器の紹介は、もはや研究調査の域を越え、本格的に事業として取り組まざるを得なくなっていた。展示会の翌日、日本アビリティーズ社(現アビリティーズ・ケアネット)のリハビリ事業部が本格的にスタートした。昭和49年7月15日である。

 この展示会のことを知り、電話を下さった方の中に当時の厚生省社会局施設課長の館山不二夫氏がおられた。

 「伊東さん、こういう展示会を福祉施設向けにやって下さい。施設はいま近代化が必要で、こういう機器を導入していくことが大切なのです」

 氏と私は、その展示会は全国社会福祉協議会(全社協)でやるのがよいということになり、すぐに二人で全社協を訪ね、この話を持ち込んだ。しかし、いくつかの理由で断られてしまった。そこで氏は私に「厚生省主催ということでアビリティーズが全部やって下さい。赤字が出たら厚生省が責任をもちます」と改めて開催の意向を示された。

 それから約4カ月をかけて60社の参加企業を集め、昭和49年秋、 4日間にわたり東京・大手町で開催したのが「第1回福祉施設のための近代化機器展」であった。

 第2回以降は全社協主催に移行した。これが今や福祉用具の分野で世界三大展示会のひとつとなった国際福祉機器展の始まりである。

 アビリティーズが福祉機器を開発し販売する目的は、障害をもっている人が自立生活を確保し、家庭で、職場で、社会で、同じ住民として生きていけるようになることにある。 たとえ障害はあっても、自らの人生を少しでも自分の意思によって判断し、行動できるようにしたい。それは「自立」を意味する。しかし、今世の中で売られている福祉機器は、「介護をいかに楽にするか」ということに力点がおかれているように思えてならない。本来、介護機器は、できることなら、利用する場合でもなるべく短期間ですむようにしたい。旅行や外出もできて、日々の生活を楽しめるようになって欲しい。

 からだに障害があってもそれぞれがすばらしい人生、一度きりの人生を享受できることこそ大切だと、アビリティーズは考えている。

1999年
アビリティーズの施設サービス、その目的と経過

 高齢者の福祉プログラムは、制度面では長い間、施設サービス中心であった。本格的な在宅福祉サービスは、 平成12年の介護保険制度が開始されてからだ。それ以前もなかったわけではないが、自治体により大きな格差があったし、必要なサービスの種類と量はニーズ に程遠かった。介護保険制度の創設により、昭和46年から、福祉機器の開発・販売の事業に取り組んできたアビリティーズだが、高齢者や障害のある人が、住みなれた街に住み続けられるために、福祉施設を開設することを決めた。いまだ不十分ではあるが、在宅サービスが本格的に国の制度に位置づけられた意義は大きい。

高齢者にとって安心な生活とは

 平成11年にアビリティーズによる最初の高齢者住宅を東京・府中市に造り、その後少しずつ内容の異なるものを造ってきた。ご入居の方々が、できるだけご自分の生き方、生活のしかたを大切にしていただきたいと、「気まま館」と名づけた。

 加えて、デイセンターやグループホームなどを開設していった。しかし、結論として、高齢者だけで住むいわゆる「老人ホーム」にできるだけ移り住むようなことをしない方がよいと、考えるようになった。

高齢者にとって安心な生活とは

 私が気まま館に行くと、入居者の皆さんは、「食事はおいしいし、スタッフもよくしてくれる、ここはいい」と言ってくださる。でも、それがどこまで本音なのか、実は違うのではないかと思うようになってきた。

 本当は皆さん、できることならご自分の家に住み続けたかったのである。身体が不自由になったり、 家族とうまくいかなくなったり、いろいろと事情があるのだ。誰が好んで自分の住み慣れたところから、慣れ親しんだいろいろな思い出の家具、重宝してきたも のを置いて、わずらわしいこともある半ば集団生活の場へと喜んで移るだろうか。

 たしかに私の母のことを思うと、私のこの想いは間違っていないと確信できる。最初の気まま館を建設した時、両親に2、3日試しに生活してもらった。母から特に感想を聞けなかった。聞いても返事がなかった。1年後さらに工夫したものを造り、また数日、来てもらった。やはり、喜んでもらえなかった。

 その翌年、また違ったものを今度は埼玉・川口市に造った。デイサービスとグループホームを併設した、今なら小規模多機能といわれるものである。無理をせず、最初にデイサービスだけ開業し、半年後くらいにグループホームを、1年後に高齢者住宅・気まま館をようやく開所した。また同じように2、3日母に住んでもらうことにした。85歳を超え、足腰が痛くて満足に立ち居振る舞いができなくなっていたし、認知症で要介護3の父との2人暮らしが限界に来ていたので、 何とかしなければとの想いが私にあった。

 そして母は初めて、「ここなら住みたいね」と言ってくれた。それでも、母は半月だけそこにいて、あとの半月はやはり自分の家で生活したいと言い、亡くなるまでの3カ月ほどそうしていた。気まま館では3度の食事もよく管理されていて黙っていても出てくるし、お風呂も広々ゆっくり入れる。快適そのものなのだが、それでも精神的な開放感を望んだのか、生活のうえでは不便なことが多いにもかかわらず、自宅での1人住まいの楽しさを持ち続けたかったのである。

 結局、住み慣れた土地で、親しい友人たちとの付き合いを保ちながら、顔見知りの店で買い物ができ、それがたとえ介助を受けるようになっても、そこが一番いいところなのだと、母を通して確信した。

 高齢者は感覚で生活している。どこに何を置いているか、どこに何をしまってあるか、身体の中に記憶されている。外に出れば見慣れた風景があり、 隣家に咲く花も知っている。近所の幼な子が大きくなり、挨拶もろくにしなくなっても、後姿を見て安心している。やがて家から出られなくなっても、寝付くようになっても、外の物音でそれが何かわかる、そういう生活が安心なのだ。

 そうした生活を複合的に、トータルで支えるコンセプト(概念)、システム(仕組み)が、これからの福祉であり、それをもって新しいコミュニティケアを構築することだと思う。地域での人の絆を大切にした支え合い、助け合いのコミュニティをつくっていきたい。