1966(昭和41)年4月、日本アビリティーズ協会の創立集会が東京・大田区で行なわれた。新聞やラジオ、テレビ等で集会のことを知った200人もの身体障害者の人達が、当日、会場につめかけた。

会場の正面には、「保障よりも労働の機会を」の文字が大きく書かれていた。夕方4時から、実に夜9時過ぎまで、会場は熱気で満ち、興奮が続いた。

最後にアビリティーズの綱領を、全員で朗唱するときのひとりひとりの顔には、力強い意気込みがはっきりと示された。もう、慈善や同情に甘えたくない。まず、自らのもてる能力を発揮してみようとの決意の顔であった。

1.からだに障害があってもできるはず

創立集会の行なわれた前年、私が大学4年の時に、ある雑誌に私の短い投稿が掲載された。それは、自分の体験から「障害者であっても、積極的に自分の人生を展開していこう、やればできる」という内容の、ほんの400字程度の短い文章だった。

私はもともと、自分が障害者であるにもかかわらず、ほかの障害を持つ人たちに対して、つとめて無関心を装ったり、無視したりする人間だった。歩いている道の向こう側から、障害者がこようものなら、まるで自分の歩く姿を鏡の中に見ているような恥ずかしさにおそわれ、意識的に視線を別のところに向けたりしていた。

「自分は障害者でありたくない」との願いが、何事も精一杯やる強い意志をもつことになったものの、他の障害者達をみると「彼らだって自分の力でやればいいのだ」という冷たい気持ちしかそれまでの私にはもてなかった。

この雑誌が発行されて、私は全国から5、60通の手紙を受けとった。ほとんどが同感、共鳴の内容であった。しかし、そのどれもが自分の力でやりたくてもできない人達だった。重度の障害で、友達どころか家族以外の誰とも話をする機会のもてない人達、人の目を気にして毎日、下積みの生活、自信をもてず、苦痛の中に日々を送っている人達の生活に、私は初めて触れた。

連日送られてくるそれらの手紙を読んでいるうちに、私は次第に沈痛になっていった。たしかに、私の場合は障害も重い方ではないし、周囲の助けもあって自分の意志のままに、学校も何も普通に進んでくることができた。しかし、そんな私でも子供の頃、仲間はずれにされて、ひとり淋しく遊んでいたこと、運動会にも遠足にも参加できず、とり残されていたことを思い出した。

また、高校を卒業して私は一時就職したのだが、その就職試験の際も「身体障害者は採用しない」との理由で、大手企業を含め約100社から、試験の前に応募書類が返送されたり、電話で問い合わせても断られたりした。そんな屈辱を、改めて思い出していた。

届いた手紙を読み返して私は、障害をもつ者に必要なのは、何かに打ちこみ、そして自信をもって、積極的な生き方、人生を送ることではないかと思った。そして、最も有効なことは「仕事」であった。次第に私は障害者が中心になって働くことのできる職場について夢を描いていた。

2.アメリカ・アビリティーズとの出会い

たくさんの授産施設も訪ねてみたが、そのいずれもが市内から遠く離れた山の中などにあった。中にいる障害者達は日曜日になると、はるばるバスで町にでて、ある者はたいしたこずかいもないのに、酒やパチンコに費やしていた。日頃の隔離生活がそうさせるのである。

仕事も、内職程度の、どうみても採算のとれそうにもないものばかりで、入所者達は仕事に対する喜びをもっていない。行く所がないからそこにいる、という感じで、どうしても私の感覚とはあわなかった。

私の考えていたのはもっと企業性の高いものであった。収容されるのではなく、勤務するのである。普通の社会人として、仕事を味わい、家庭をもつことである。

明確な方法を得られないでいたとき、ニューヨークのアビリティーズ社を知った。国内で得られる情報をできるだけ集めた。

あゝそのすばらしさ、私の求めているそのものが、そこにあった。私の願いに応じて、アビリティーズ社のヘンリー・ビスカルディ氏から分厚い資料とともに、あたたかいメッセージが寄せられてきた。

アメリカ アビリティーズ社

アメリカ アビリティーズ社

アメリカ人にできて、日本人にできないはずはない。若い私はそう思い込んでいた。この頃には数人の同志もでき、次第に「日本アビリティーズ」創立の心づもりが固まっていった。そして1966年2月、大学の卒業試験が終了した翌日から私はこの準備に没頭した。

4月の日本アビリティーズ協会の創立集会は大きな波紋を起こした。アビリティーズ精神に共鳴する人々は日本にもたくさんいた。

協会創立後、私はすぐにアビリティーズの綱領を実証する会社づくりの準備を始めた。きれいごとは誰でも言えるが、言葉だけではだめだ。障害者にも能力のあることを、身をもって、会社の成功をもって証明しなければならない。

同志の糾合、仕事は何をやったらよいか? 資本金は? 得意先は? 機械設備は?

東京軽印刷工業会の理事であった、今は亡き小関謙六さんにお会いしたのはその頃である。小関さんの応援で、我々は印刷業に取り組むことになった。資本金は身体障害者の人たちを含め約20人が、小は1,000円からという資金をあわせ150万円でスタートすることになった。