1966年6月11日、会社は設立登記を完了、創立した。はじめの工場は東京・大田区の長屋工場の5坪ほどの一角で、それも天井もなく、風向きによっては、夏の暑さでトイレの臭気がたちこめるような所であった。10ヵ月の月賦払いで買った和文タイプライターが3台、小さな輪転印刷機が1台という零細印刷工場の誕生だった。印刷業について誰もズブの素人。社長の私でさえ印刷の工程、見積り計算すらまだ十分に知らない、無鉄砲な始まりであった。

しかし、我々にとって、こんなスタートでも希望にあふれていた。とにかく、たとえ貧しくとも、我々自身の手で全てを用意し、全身全霊をもって取り組んでいける場所が欲しかった。すばらしい建物、寮施設、十分考えられた食事付きという国家の補助で養われる福祉施設には魅力を感じられなかった。どこまでも可能性を追及でき、自分を没頭させられる、そんな場を求めていた。創業に参加した者は両足マヒ、脳性マヒ者、手などの障害者で、それまで職ももてず家族の面倒になっていた人達であった。

苦しくても「自分達の会社」

しかし仕事は一向にこなかった。連日、私は訪問を続けたが、最初の1カ月の売り上げは何とたったの16,000円であった。一方、技術をもたない従業員たちは、訓練に時間をかけねばならなかった。工場準備に要したいろいろの経費をあわせて、最初の1カ月間で50万円もの赤字がでてしまった。申し出のあった好意や応援を甘くみていた結果だった。

私は営業戦略を変えた。あてにできない見込み客は捨て、確実に受注できるところに開拓の的を絞った。4カ月目頃からやっと100万円位の注文がとれるようになったが、技術の拙劣さは、業績を悪化させるばかりだった。注文が増えても力がないため徹夜が続く。それをカバーするため、また新たに障害者を採用する。ところが思うように仕事があがらない。悪循環が続いた。

工場も家主等の理解が得られず1年間に4か所を転々とした。みじめな思いが時々私の胸をよぎった。1年後、会社の借金は400万円を越えていた。 しかし、1年半を経過した頃から目に見えて情勢が変わっていった。かみあわなかった歯車が、確実にまわりだした感じがしていた。

とにかく、従業員たちの気迫はすごかった。私にとって、可能性を見いだすことができたのは、その協力があったからだ。「自分達の会社」という意識が満ちていた。

3年を経過したとき、会社の財政状態はどうやら正常に回転するようになった。欠損を消し、差し引き純利益を計上、1割の配当を開始した。資本金は、その時まだ240万円であった。従業員15人ほどの小さなグループだったが、長い長い夜のゲリラ戦を通り過ぎてきたような気がした。

会社の売り上げも年々ふえ、5千万円を越え、1億円を越えていった。従業員たちの給料も次第に昇給し、完全に納税者の立場になった。

我々が創立した頃、身体障害者の社会復帰を「社会福祉法人」ではなく「株式会社」で試みることに、経験深い社会事業家の多くは注目しながらも、厳しい批判をあびせていた。小さなはじまりの運動であったが、アビリティーズの生き方は、少しずつ日本でも陽の目をみるようになってきたようであった。