【南国のきらめく空と、透き通った海の青にも感嘆。タイ・エメラルド寺院にて(2003年5月)】

旅は最高のリハビリ

1972(昭和47)年の初夏、身体に障害のある20代の若い人たち15人と、特に障害はないが、障害者と何らかの関係のある分野で仕事をしている人たち5人の、合わせて20人でアメリカ、カナダ、そしてハワイも含めて3週間に及ぶ海外ツアーを行なった。日本アビリティーズ協会が行なった最初の、障害のある人たちの海外ツアーであった。

 以来、少ないときでも年に2~3回、毎年5回くらいの海外への旅と、北海道や関西、沖縄等の国内旅行を毎年行なってきた。またこれに加えて、日帰りツアーもひんぱんになり、高齢者、障害者のツアー、お出かけプログラムは、あわせると一年に4、50回行なわれている。

1988(昭和63)年からは、いま、茨城県知事の顧問としてリハビリシステムの指導をされている大田仁史先生や、新潟のゆきぐに大和総合病院院長であった斉藤芳雄先生に協力していただき、障害のある人、半身麻痺、リウマチ等、様々な障害のある高齢者の「旅」を企画し実施してきた。通院以外は自宅にこもりきりで、旅行などとても考えたことのない人たちを、段階的に外に連れ出し、ついには海外旅行にまで行かせてしまうのである。旅行にしろ近くへの外出にしろ、初期の段階で失敗することは、絶対に避けなければならない。

 とにかく旅行に行ってみようか、自分に行けるだろうか、と思った人が、その最初の旅行で無事に行け、楽しく過ごせることが大事だ。そのため、安全に旅行ができることを確認してもらえるように、沖縄本島南部に「リゾートアイランドヴュー」という完全バリアフリーの、小さな、しかし結構しっかりと装備したホテルを、アビリティーズが建設してしまった。1989(平成元)年4月のことである。沖縄旅行の体験をした人は13年間で2500人を超えた。それで自信をつけて海外ツアーに行くことになった人、それも一度ならず、三度、四度という人がざらにいるのである。

 この喜びは本人だけではない。むしろ、配偶者はじめご家族が共に旅を楽しめることが大切だ。倒れて麻痺のある身体で、

 「まさか一緒に旅行に行けるとは」

と、驚かれる。それまではたいていの場合、思いもよらないことだったのである。それが実現し、「行けた」という自信は、その後の人生を大きく変えてしまう。

遠足にも行けなかった子供時代

 アビリティーズの旅行プログラムは、私自身の体験を通して始まった大きなチャレンジであった。

私は一歳でポリオになり、最初は両脚が麻痺して歩くことができなかったが、母の、祈りと粘り強い医者通いで、奇跡的に左脚が回復し、障害は右脚だけにとどまった。しかし、友だちと同じペースで歩くことなどとてもできず、小学校に入る頃には一緒に遊んでくれる仲間は少なくなっていた。

皆が楽しみにしていた遠足には、小学校から高校までの12年間に、合わせて4回しか行けなかった。遠足は毎年春、夏の2回だったから、皆の6分の1しか行けなかったことになる。遠足前後は、クラスの仲間たちの話に入っていけなかった。ディズニーランドやテーマパークもなく、テレビもない時代、そしていずれの親たちも忙しく働いていた。戦後の復興の真っ只中で皆ようやく生きていた時代である。学校の遠足は子どもたちにとり、楽しい一大イベントであった。しかし、私にとってそれはたいへん淋しい思い出であった。

 そんな経験をもつ私も、アビリティーズの組織をつくり、アメリカに行く機会があった。

私自身が旅行の経験に乏しく、身体の障害もあり、躊躇があった。また当時、自分の英語が通じる自信などなかった。自分の移動もなかなか困難であったが、最初の海外旅行で22日間で10都市を回るという、私にとっては生まれて初めての大冒険をした。

これは私のそれまでの世界観を変えることになった。そして、旅行の楽しさも初めて知ることにもなった。過去の体験をはるかに超え、知らない世界、人々、生活、社会があることを見たり感じることができた。それまで旅行に行くことができなかった自分の、限られた体験で物事を見、考えていたが、それはなんと狭い、ちっぽけなことだったかと思ったものである。

しかし、心身に障害のある人は、たいていみんなそうだった。海外どころではない。隣り街すら知らない人も多い。

 「障害があって、いろいろなことを体験できないでいる人たちにこそ、旅行が必要だ。その機会をつくろう」

1988年(昭和63年)8月、まず第一回として大田仁史先生を団長とし、多くは高齢の中途障害のある方々30数名が参加して、沖縄北部・恩名村と、那覇市の高級リゾートホテルを利用して3泊4日で行なった。いくら素晴らしいホテルでも普通のバスルームを使っての入浴やトイレはやはり大変なことだった。観光コースもバリアだらけ。そして観光バスは普通の車両なので、車床が高く、乗降するには介助者が抱え上げるしかなかった。

沖縄ではバスの乗降はすべてマンパワーで対応した。写真上は太田仁史先生

沖縄ではバスの乗降はすべてマンパワーで対応した。
写真上は太田仁史先生。

大田先生が、参加者一人ずつの介助の仕方を、ボランティアで参加した琉球大学の学生さんたちにことこまかく指導してくださって、1日目、2日目と進んでいった。大田先生も見かねておぶったりする場面も多く、このツアーの後、長い間、ひどい痛みに悩まされることになってしまった。

ところが3日目くらいに、それまですべて介助に頼っていた人が、バスの椅子につかまって、狭い車内をそろりそろりと歩き出す場面がみられるようになった。羽田での出発のときには緊張で顔が引きつっていたのに、顔の麻痺がわからなくなるくらい、明るく大笑いするような人も出てきた。


大田仁史先生の名言

翌日は東京に帰るという前の晩、夕食会で大田先生の素晴らしいお話があった。その中で、

 「旅は最高、最大のリハビリですね」

と言われた。今、その言葉だけが独り歩きして、先生の意味するところもわからずに、大手の旅行社の宣伝文句にも使われているが、本当は実に意味のある言葉なのだ。先生のそのときの話は、今も私の耳に明確に残っている。

遠足になかなか行けなかった私だが、高校3年の春の修学旅行に行くことができた。当時お決まりの京都、奈良、大阪であった。それまで中学、高校と一度も行くことのなかった私が、なぜ行くことになったのか、とにかく何となく行けそうな雰囲気が私の周りにできていた。数年ほど前の久しぶりのクラス会で恩師から初めて聞かされた。「クラスの皆が、何としても修学旅行に伊東を連れて行きたい、と職員室に来て話し合った」そうだ。50年も前のことを初めて知ることができ、私はクラスの仲間の友情に感動し、涙してしまった。

 しかし今もなお、誰でも障害を負えば、多くの場合、旅行はもちろん街に気楽に外出さえもできないような社会の環境、物理的な困難さがそこら中に存在している。たまたま、介助や、特別な配慮、あるいは友情といったようなことがあって初めて、移動やお出かけ、旅行ができるようなそういう社会であってはならない。たとえどんなに重度の障害があろうと、その人の一生は一回きりであり、やり直しはきかないのである。誰もが同じように素晴らしい人生の体験と喜びを享受できる、そういう世の中をつくることこそ大切である。

車いすに乗っていようと、どんな障害があろうと、行きたいと思えば、どこにでも行ける、家族や友人たちと一緒に旅行を楽しめる社会に変えねばならない。

全文ははコラム「”旅” で人生が変わるに掲載しています。

現在の活動はこちら→車いすでも行けるリハビリツア