コラム

”旅” で人生が変わる - アビリティーズのリハビリツアー

2018年03月06日

これは、アビリティーズのリハビリツアーについて、その始まりと歩み、取組みについて説明するものです。内容はアビリティーズ選書7「障害者の尊厳と自立へ闘い(アビリティーズ運動、チャレンジの45年)」のからの引用を含みます。

 現在のリハビリツアーのご案内はこちらです。

旅は最高のリハビリ

 一九七二(昭和四七)年の初夏、身体に障害のある二十代の若い人たち十五人と、特に障害はないが、障害者と何らかの関係のある分野で仕事をしている人たち五人の、合わせて二十人でアメリカ、カナダ、そしてハワイも含めて三週間に及ぶ海外ツアーを行なった。日本アビリティーズ協会が行なった最初の、障害のある人たちの海外ツアーであった。

 以来、少ないときでも年に二~三回、毎年五回くらいの海外への旅と、北海道や関西、沖縄等の国内旅行を毎年行なってきた。またこれに加えて、日帰りツアーもひんぱんになり、高齢者、障害者のツアー、お出かけプログラムは、あわせると一年に四、五十回行なわれている。

 一九八八(昭和六三)年からは、いま、茨城県立健康プラザの管理者をしておられる大田仁史先生や、新潟のゆきぐに大和総合病院院長であった斉藤芳雄先生に協力していただき、障害のある人、半身麻痺、リウマチ等、様々な障害のある高齢者の「旅」を企画し実施してきた。通院以外は自宅にこもりきりで、旅行などとても考えたことのない人たちを、段階的に外に連れ出し、ついには海外旅行にまで行かせてしまうのである。旅行にしろ近くへの外出にしろ、初期の段階で失敗することは、絶対に避けなければならない。

 とにかく旅行に行ってみようか、自分に行けるだろうか、と思った人が、その最初の旅行で無事に行け、楽しく過ごせることが大事だ。そのため、安全に旅行ができることを確認してもらえるように、沖縄本島南部に「リゾートアイランドヴュー」という完全バリアフリーの、小さな、しかし結構しっかりと装備したホテルを、アビリティーズが建設してしまった。一九八九(平成元)年四月のことである。沖縄旅行の体験をした人は十三年間で二千五百人を超えた。それで自信をつけて海外ツアーに行くことになった人、それも一度ならず、三度、四度という人がざらにいるのである。

 この喜びは本人だけではない。むしろ、配偶者はじめご家族が共に旅を楽しめることが大切だ。倒れて麻痺のある身体で、

 「まさか一緒に旅行に行けるとは」

と、驚かれる。それまではたいていの場合、思いもよらないことだったのである。それが実現し、「行けた」という自信は、その後の人生を大きく変えてしまう。

写真は、タイ・エメラルド寺院にて(2003年5月)

遠足にも行けなかった子供時代

 アビリティーズの旅行プログラムは、私自身の体験を通して始まった大きなチャレンジであった。

 私は一歳でポリオになり、最初は両脚が麻痺して歩くことができなかったが、母の、祈りと粘り強い医者通いで、奇跡的に左脚が回復し、障害は右脚だけにとどまった。しかし、友だちと同じペースで歩くことなどとてもできず、小学校に入る頃には一緒に遊んでくれる仲間は少なくなっていた。

 皆が楽しみにしていた遠足には、小学校から高校までの十二年間に、合わせて四回しか行けなかった。遠足は毎年春、夏の二回だったから、皆の六分の一しか行けなかったことになる。遠足前後は、クラスの仲間たちの話に入っていけなかった。ディズニーランドやテーマパークもなく、テレビもない時代、そしていずれの親たちも忙しく働いていた。戦後の復興の真っ只中で皆ようやく生きていた時代である。学校の遠足は子どもたちにとり、楽しい一大イベントであった。しかし、私にとってそれはたいへん淋しい思い出であった。

 そんな経験をもつ私も、アビリティーズの組織をつくり、アメリカに行く機会があった。

 私自身が旅行の経験に乏しく、身体の障害もあり、躊躇があった。また当時、自分の英語が通じる自信などなかった。自分の移動もなかなか困難であったが、最初の海外旅行で二二日間で十都市を回るという、私にとっては生まれて初めての大冒険をした。

 これは私のそれまでの世界観を変えることになった。そして、旅行の楽しさも初めて知ることにもなった。過去の体験をはるかに超え、知らない世界、人々、生活、社会があることを見たり感じることができた。それまで旅行に行くことができなかった自分の、限られた体験で物事を見、考えていたが、それはなんと狭い、ちっぽけなことだったかと思ったものである。

 しかし、心身に障害のある人は、たいていみんなそうだった。海外どころではない。隣り街すら知らない人も多い。

 「障害があって、いろいろなことを体験できないでいる人たちにこそ、旅行が必要だ。その機会をつくろう」

 障害のある人たちの旅行に関する情報を集め、観光と施設等の見学先を固める等、入念に準備を進めた。

初めての車いすツアー

 一年後にこの最初のツアーは行なわれたが、決して楽な旅ではなかった。最も困ったのは、一緒に行った障害のない人たちから出た不満だった。出発前に旅行の趣旨を理解してもらっていたはずであったが、日程ちょうど半ばの十日が過ぎた頃、ほぼ全員から、「自分たちも旅行費用を払って参加している。しかし、移動に時間もかかり、車いすを押すことを手伝ったりで、フリータイムでも自由な行動ができない。悪いけどこれから先、自分はグループと別行動で旅をしたい。帰りは合流するから」と言われたのである。

 確かに、かなりの介助の協力をしてもらっていた。しかし、それは出発前に了解してくれていたはずだった。でも、それが十日も続くと、やはり我慢ならないことになったのであった。困ったことになった。一人でも別行動になると、観光先や空港等で、車いすの移動、介助に支障をきたすことは明白だった。それでは夕食後に話し合うことにしようと、その場はおさめ、ゆっくりとおいしい食事を終えた後、私の部屋に集まってもらい、そのメンバーと話し合うことにした。

 ビールやウイスキー等をふんだんに部屋に持ち込み、まあ飲みながらと、ベッドにあぐらをかいて、話し合いを始めた。夜中までいろいろなことを語り合った。その結果、皆さんよくわかってくれた。疲れとストレスからきていたのだった。親切な気持ちを皆もっているのだが、やはりせっかく来た海外旅行で、思いのままに行動できない、たまには自分の好きな食事を好きなところで勝手に食べたくても、それもできない状況では、誰も我慢ならないことになるのは当然だった。

 この悶着はいい経験だった。ボランティアの限界を知った。その後、今にいたる多くのツアーのためにもいいヒントを与えてくれた。つまり、長い旅行で善意をあてにして、障害ある人の介助などは考えるべきではなかったのだ。

 この経験から、その後のツアーでは、同行する家族さえも介助の役割、負担から解放することの必要性を学んだ。ご主人や奥様の介助を「他人に絶対に任せられない」と思い込んで参加される家族も多い。しかし、だいたい旅の途中から、そんなことを忘れて人任せにし、夜どこかへ出かけてしまうくらいの家族も出てくる。つまり家族も解放してやることがとても大事なのだ。そんなわけで、アビリティーズのツアーでは、いろいろな介助スタッフがかなりの人数で同行して、濃厚な態勢で行なうのである。

沖縄にテスト旅行

 その後数年間、アメリカ、ヨーロッパ、ハワイ、アジア等、日本アビリティーズ協会がごく一般的な地域の海外旅行を行なっているうちに、参加メンバーは次第に変化していた。当初はどちらかといえば若い人たちが参加していたのに、次第に、脳卒中等の中途障害の方の参加が目立ってきたのである。

 「かつて商社に勤めていた。アメリカにもう一回行ってみたい」
 「ドイツに娘が嫁いでいるので、孫たちに会いたい」
 「一度は戦争当時の思い出の地に行きたかった」

と、いろいろな思いをもっている方々だった。それは次第に人数が多くなり、しかも重度の状態の人が結構多くなってきた。中には、普段かかっている医者から、

 「大事をとって行かないほうがいい」

と言われたのだが、

 「死んでもいいからぜひ行きたい」

と言う人も現れた。こちらも少しずつ心配が募ってきた。旅行中に脳卒中等を再発されでもしたらと考えると、うかつに

 「行きましょう」

と言うわけにもいかない。私の周辺の医師にも、

 「脳卒中の麻痺のある人を海外に行かせるなんてとんでもない」

と言う人もいたのだから。

 確かに、何が起こるかわからないような冒険的な旅行を行なうことが危険なことは間違いなかった。事故や重大な事態を旅行中に起こすことは、絶対に避けなければならない。

 そこで、中途障害の人も含めて重篤な障害のある人を対象に、もう少し短期間の旅行、短い時間のフライトで気軽に、体験旅行、お試し旅行をしてもらうことを考え始めた。「さてどこがいいか」と長い間探したが、結論として国内でも文化が異なり、エキゾチックな雰囲気もある沖縄にそのシステムをつくる計画を真剣に進めてみたらどうかということになった。一月の冬に桜が咲くという暖かさもよかった。

 ちょうどその頃、沖縄本島南部に特別養護老人ホームをつくる応援を頼まれた。それとあわせて小型のホテルを設置する構想でその実現性は高まった。敷地の取得からアビリティーズがプロジェクトを進めることになった。歴史的にも由緒があり、景勝地だった。さんご礁の美しい海が一望できる丘の上に二千三百坪の土地を取得することになった。ひとまず特養ホームに土地の一部を寄付し、そちらは建築が始まったものの、旅行用の滞在施設をつくるかどうかについては、迷いに迷って一年が経過した。

 昔からアビリティーズの活動の協力者だった大田仁史先生と斉藤芳雄先生に相談しながらも、ホテルを建てる大きい投資までしての計画を決断することができずにいた。そして、実験的に参加者を募集して沖縄ツアーを催行することになったのである。

 一九八八年(昭和六三年)八月、まず第一回として大田仁史先生を団長とし、多くは高齢の中途障害のある方々三十数名が参加して、沖縄北部・恩名村と、那覇市の高級リゾートホテルを利用して三泊四日で行なった。いくら素晴らしいホテルでも普通のバスルームを使っての入浴やトイレはやはり大変なことだった。観光コースもバリアだらけ。そして観光バスは普通の車両なので、車床が高く、乗降するには介助者が抱え上げるしかなかった。

 大田先生が、参加者一人ずつの介助の仕方を、ボランティアで参加した琉球大学の学生さんたちにことこまかく指導してくださって、一日目、二日目と進んでいった。大田先生も見かねておぶったりする場面も多く、このツアーの後、長い間、ひどい痛みに悩まされることになってしまった。

 ところが三日目くらいに、それまですべて介助に頼っていた人が、バスの椅子につかまって、狭い車内をそろりそろりと歩き出す場面がみられるようになった。羽田での出発のときには緊張で顔が引きつっていたのに、顔の麻痺がわからなくなるくらい、明るく大笑いするような人も出てきた。

大田仁史先生の名言

 翌日は東京に帰るという前の晩、夕食会で大田先生の素晴らしいお話があった。その中で、

 「旅は最高、最大のリハビリですね」

と言われた。今、その言葉だけが独り歩きして、先生の意味するところもわからずに、大手の旅行社の宣伝文句にも使われているが、本当は実に意味のある言葉なのだ。先生のそのときの話は、今も私の耳に明確に残っている。

 「病院でADL等の訓練を受けてきても、わが家に帰ると次第に家族の介助に頼りがちになってしまうのが普通。旅行に出ると、病院で訓練を受けたADLを自分で久しぶりにやることになる。出発の時間に間に合わないとホテルにおいていかれてしまうかもしれない。起きたら、トイレ、洗面、着替え、そして食事、限られた時間で全部やって出かけないとついていけない。それを数日間にせよやる。旅行という非日常の世界で、楽しいこと、珍しいことがいろいろある。そこで心が動く。心が動くと身体も動いてくる。旅はすごいリハビリなんだと、皆さんを見ていて本当に思いました。」

 そして実験第二回目は斉藤芳雄先生を団長に、同じようなコースで、二五名ほどの参加者により行なわれた。ホテルもバスも観光地も問題は同じだった。那覇では斉藤先生を囲んで、障害のある人たちが一緒に有名な歓楽街の夜へと車いすで繰り出した。筋ジストロフィーの障害のある新潟県南魚沼市の上村ヤスノさんは、カラオケスナックで歌ったのは生まれて初めてだったというが、その美声と歌唱力に一同魅了された。彼女にとってこのときの体験は忘れることのできない思い出になったようだ。

 また、ホテルでの夕食のときに、六十代後半のご夫婦が泣いておられた。企業戦士として会社で無理に無理を重ねて働き通してきたご主人は、退職後、奥様と一緒に旅行する予定を立てていたそうだ。それが退職の直前に倒れ、その計画はなくなってしまった。無念のうちに療養生活を送り、少しずつよくなってきたものの、車いすなしでは生活できない状態だった。それがこうして、沖縄に来られることになり、「夢のようだ」と感激していたのだ。思わず、私たちももらい泣きしてしまった。

写真は、バスの乗降は全てマンパワーで対応した沖縄旅行と太田仁史先生

沖縄にホテルを建てる

 この二回の実験の旅で、たくさんの感激をいただき、沖縄に総工費三億円をかけてホテルを建てることを決心した。地域は無医村だったこともあり、地元の仲里常延村長さんからも要請され、一階に診療所も開設した。医者は東京から招聘した。二階は九室の客室とダイニングルームそしてロビーの、小さなホテルだ。客室は車いすで十分に動ける広い部屋で、重度の障害のある人でもできるだけ自立して使えるトイレと浴室を備えた。デザインのよいフランス・ルノー社製の十人乗りミニバスを輸入し、車いす利用のための折りたたみ式のスロープを架装した。これで島内の観光も自由にできる体制を整えられた。

 毎年冬に定期的に長期滞在する人もあり、また知的障害の養護学校の生徒さんたちが毎年の修学旅行で利用されたりと、さまざまだった。

 日本アビリティーズ協会の毎月のグループツアーでは、障害をもってから初めての旅行の体験を通して、ご自分の身体が旅行に耐えられるかどうかの確認ができる。ここで自信をつけて、次は海外へと夢を膨らませて、実際にその後世界中に幾度となく旅をしている人も多い。病気や障害で一度は挫折しても、沖縄旅行がきっかけとなって、再び、人生を羽ばたくように復活させることができたのである。

 その後、お亡くなりになった方のご遺族から、「沖縄へ旅行ができてからすっかり変わりました。また海外に行きたいと積極的に訓練をしたり自分で旅行先を事前に調べたり、生きがいを得ました。病気になったけれど、いい人生だったと感謝していました」などというお話をよく聞いた。

 建築して十三年をもって、リゾートアイランドヴューは売却することになった。沖縄だけ旅行できるようなシステムはむしろ良いことではなく、全国各地に旅行、滞在できることを可能にするべきであること、そしてJDA(障害者差別禁止法)の制定実現に向かって、国内の観光地もまた変えていくことの運動を進めるべきであった。

写真は、リゾートアイランドビュー(1989年)

計画的にステップアップ

 アビリティーズのツアープログラムは、最初は日帰りのプログラムから始まる。日本アビリティーズ協会の「お出かけ協力隊」の移送車で自宅までお迎えをし、日帰りでピクニックや演奏会に出かける。次は三泊程度の国内旅行、それも北海道や、京都観光。そして、いよいよ海外ツアーである。長野厚生連鹿教湯病院の協力による一週間のリハビリドックでは、屋外のリハビリプログラムで美しい信州を楽しむこともできた。

 協会は介助等の協力者の「旅たびパートナー」というボランティア組織を編成している。本業は看護師さんやセラピスト、ヘルパーさん等で、職種はさまざまだ。パートナーにも参加者と一緒にしっかり楽しんでもらう。

 海外のような長い旅に参加するまでには、何度か日帰りの催しや国内旅行の介助や添乗で、研修してもらう。単に介助技術の提供だけではなく、アビリティーズの哲学を学んでいただくプログラムがここにもある。こうして介助スタッフの養成を拡大している。

 最近は、協会事務局だけではなく、障害のある会員や旅たびパートナーが中心になって、旅行内容を企画し催行する方向に向かっている。旅行体験がついてくると、今度はさらに楽しみをご自分たちで作り上げていただく。そうはいっても、海外へのツアーの場合は、旅行社のノウハウの活用も重要だ。しかし、それもほどほどしか信用できない場合が多い。大丈夫だと聞いていたのに、行ってみたらホテルのレストランの出入口に実は段差があった、部屋のバスルームが車いすでは使えなかった、などというのはざらに起きる。

 初めての旅行先については、アビリティーズの海外提携先がそうした最新情報を調べ上げ、場合によっては現地の確認にまで動いてくれることもある。スペインの地中海沿いにバスで上がってきて南フランスのトルーズでパリヘの新幹線に乗り換えるには、どこの駅なら安全で都合がよい、何分停車している、といった情報を現地の提携先が調べてきてくれた。

 二〇〇四年の十一月後半~十二月初めにかけ、十五名の方と五名の介助者がカリブ海のクルージングツアーを行なった。成田からマイアミに飛び一泊して乗船、四島を巡りながら船中に七泊、帰路ではニューオーリンズに二泊して本場のジャズを楽しんできた。世界第二の大型客船での豪華な船旅だったが、日本と違い、船の中はバリアフリーであることはもちろん、毎日素晴らしい催しがあって皆さん満喫したそうだ。

 遠足になかなか行けなかった私だが、高校三年の春の修学旅行に行くことができた。当時お決まりの京都、奈良、大阪であった。それまで中学、高校と一度も行くことのなかった私が、なぜ行くことになったのか、とにかく何となく行けそうな雰囲気が私の周りにできていた。数年ほど前の久しぶりのクラス会で恩師から初めて聞かされた。「クラスの皆が、何としても修学旅行に伊東を連れて行きたい、と職員室に来て話し合った」そうだ。五十年も前のことを初めて知ることができ、私はクラスの仲間の友情に感動し、涙してしまった。

 しかし今もなお、誰でも障害を負えば、多くの場合、旅行はもちろん街に気楽に外出さえもできないような社会の環境、物理的な困難さがそこら中に存在している。たまたま、介助や、特別な配慮、あるいは友情といったようなことがあって初めて、移動やお出かけ、旅行ができるようなそういう社会であってはならない。たとえどんなに重度の障害があろうと、その人の一生は一回きりであり、やり直しはきかないのである。誰もが同じように素晴らしい人生の体験と喜びを享受できる、そういう世の中をつくることこそ大切である。

 車いすに乗っていようと、どんな障害があろうと、行きたいと思えば、どこにでも行ける、家族や友人たちと一緒に旅行を楽しめる社会に変えねばならない。

 世界の五十か国以上ですでに成立したといわれる障害者差別禁止法(JDA)を、わが国においても一日も早く実現し、誰もが良い人生を確保できる社会をつくり、誰もが素晴らしい人生を送れるようにしたいものである。今、JDAの制定こそ社会を変えるために必要なのだ。