コラム

アビリティーズ運動創始者、ヘンリー・ビスカルディ氏

2019年09月19日

1.クラスメートはタワー のようだった

 アビリティーズ運動の創始者、ヘンリー・ビスカルディ氏が2004年4月13日、ニューヨークの病院で亡くなった。91歳であった。

 氏は、心身に障害のある人々が、かつてアメリカの企業社会では雇用の機会を得られなかった時代に、アメリカ・アビリティーズ社の創立と活動を通して、障害のある人も何かしら能力があることを証明し、障害者も同様に雇用の場で働く権利を保障されるべきだという理念を社会に承認させた。その哲学と実践は世界中に広がった。

 わが日本アビリティーズ協会の運動もまた、氏の運動を継承するものである。その死去は、ニューヨークタイムズ紙をはじめアメリカの各新聞、メディアで大きく報道された。

 氏は1912年、ニューヨーク市で生まれた。父はイタリア出身の床屋で貧しかった。氏は生まれつき腰から下に両脚がない。正確に言えば、脚とも思えぬものが胴に絡みついた状態だったという。八歳になる直前までずっと病院で過ごし、何度も手術を受けた。小学校に入学した時、彼にとってクラスメートは〝タワー〟、つまり塔のように高かった。なぜなら彼は脚の先にはボクシングのグローブのようなものを巻いて、地べたに腹をこするのではないかと思うような位置で両手を使って歩いていたからだ。近所の子どもたちは「猿人間」とはやし立てた。

 その後、フォードハム大学に入学。自ら働いて学費を稼いだが、経済的に続かず退学処分を受ける。

2.障害者ばかり4人での創業

 第二次世界大戦の時、赤十字社に入りワシントンの病院に勤務。戦傷者に歩行訓練を教えながら、障害があっても生きていける希望と勇気、自信を与えた。戦後はスポーツ記者、製鉄所の人事部長など、障害のある人々の世界とかけ離れた世界で活躍し、将来を期待されていた。

 ニューヨーク大学の教授でアメリカのリハビリテーション医学の第一人者であるラスク博士の呼びかけで、ジャスト・ワン・ブレイクという傷痍軍人たちを有給の職につかせる冒険的な組織を始めることになる。そして3年後の1952年、わずか8000ドルの借入金で、アメリカ・アビリティーズ社を設立した。大戦で戦傷者になった人々、4人合わせて満足な脚は一本、手は三本という会社の始まりである。

 「保障よりも働く機会を」、「寄付よりも投資を」と主張するこの障害者による障害者の会社は、ロングアイランドの狭い空きガレージで始まった。石炭置き場に捨てられていた壊れかかった机、借り物の製図版、ブロック壁に取り付けた一台の電話、蝿たたきが一本、設備といえばそれだけで始まった。悪戦苦闘しながら成長していった。

 障害のある者に厳しい差別のあるアメリカ社会の中で、この運動を支える有力者がいた。エレノア・ルーズベルト大統領夫人は格別であった。夫人とは、アビリティーズ社を創設する前に勤務していたウオルターリード病院時代に出会った。ホワイトハウスに招かれ、以来、夫人は最大の理解者、協力者になる。

 アビリティーズ社の事業はグルマン社、GE、IBMなど、国防産業に関係するジャイアント企業からの発注を得ることができ、拡大する。1960年代に入り、今のロングアイランド市アルバートソンに広大な用地を得ることとなり、そこに職業訓練と雇用推進センター、および障害児のための学校を開設、障害者の工場のアビリティーズ社とあわせた組織はヒューマン・リソーセス・センターとなる。

アメリカ・アビリティーズ社(1971年当時)

 その後も変革を続け現在、「ナショナルセンター・フォー・ディスアビリティーズ・サービセス」となっている。


3.氏と出会い、日本アビリティーズ社設立へ

 私と氏との出会いは1965年秋のことであった。

 たとえ心身に障害があっても対等に競争できる、商業ベースにのっとった生産性の高いビジネスを立ち上げて、障害のある人もまた職業的能力があることを証明したいと、私もまた考えていた。まだ当時は数少なかった障害者の福祉施設を訪ねてまわり、その実情に失望していた。

 そんな時、私はアメリカ・アビリティーズの存在を知った。私の手紙にこたえて、氏からの、封筒いっぱいに詰まった資料は、私の心を根底から奮い立たせることになった。アメリカ人にできて日本人にできないことはない。その年の秋に氏に会った時、私の心は決定的となった。日本アビリティーズ社設立に向けて走り出すことになった。翌年4月、日本におけるアビリティーズ運動の中核組織として、現在のNPO法人日本アビリティーズ協会を発足、二か月後、資本金わずか150万円の株式会社日本アビリティーズ社(現、アビリティーズ・ケアネット(株)を設立するに至った。

4.障害ある人々の存在の意味を変える

 氏はフランクリン・ルーズベルト氏からジミー・カーター氏に至る歴代のアメリカ大統領の助言者となり、また障害者大統領委員会で、時に委員長として、障害あるアメリカ人の人権と自由のために長きにわたって貢献をした。ADA制定にも多大な力を発揮した。氏は、まさにアメリカの障害者運動のランドマーク(指標)といわれている。

 アメリカばかりではない。ほぼ世界のどの国にも、アビリティーズの哲学を継承する組織が、直接には何のビジネスの連携はないが存在している。氏は、地球上における障害ある人々の存在の意味を変え、たとえいかなる重度の障害があろうとも、すばらしい人生があることを我々に教えてくれた。

 氏は1975年、日本アビリティーズ協会の招きでルシール夫人と共に来日、東京、山梨、大阪などで講演された。1994年6月、天皇皇后両陛下がアメリカ訪問時にアビリティーズを視察してくださった。ビスカルディ氏はそのことを人生最大の感激だとよく語った。

5.差別禁止法制定へ。氏の叱咤する声

 氏はまた日本アビリティーズの活動について、後年、「世界中にアビリティーズの名をもって活動しているところは数え切れぬほどあるが、いまなお国家の保障と社会や人々の慈善や寄付を前提とせざるを得ない状況がある。アメリカのセンターもまた多額の寄付を必要としている。しかし日本でのアビリティーズの活動は商業ベースで一般企業と競争しながら、障害ある人の雇用を続け、拡大してきた。その成功は世界中で日本だけであった。そのことは私の大きな誇りだ」と、私を勇気づけてくれた。

 氏が療養生活に入った2002年秋、久方ぶりにニューヨークを訪ね、一日ご一緒し、夫人やセンターのトップと夕食を共にした。最後の晩餐となった。

 私は氏の後姿を見ながら39年間にわたり、日本アビリティーズの組織と活動を続けてきた。いま私には氏の後姿は見えず、にこやかだが厳しい正面からの顔が常に浮かぶ。

 障害者差別禁止法の制定を拒否し、そして障害者基本法の改正でお茶を濁してきたわが国政府の姿勢と対応、政治のありようを変え、裁判規範を有する差別禁止法を、国際社会並みに制定することのために闘え!との、氏の叱咤する声が聞こえる。

(2004年6月 アビリティーズ紙139号より転載)

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