これからの高齢者医療・福祉制度/在宅ケアを支えるアビリティーズ活動

高齢化が進むに連れて障害者は増える

 今、日本には障害者が概ね730万人おります。これは人口の5%強に当たるわけですが、障害者の対策は非常に遅れています。実は私は一歳の時にポリオ(小児麻痺)になりました。こうして立って歩いていますが、右足の腰から下に装具をつけておりまして、これを履いていることで立てる、歩けるわけです。風呂に入る時には外しますので、部屋の中では、つかまり歩きをしたりするわけですが、この装具一つにしても、日本にはなかなかいいものがないというのが現状で、そういうことで障害のある人たちの自立も阻まれているわけです。
 障害者というと、皆さんは、全然、別の世界の人たちのことだと思われるでしょうが、実は違うのです。障害者の概ね6割の人が、65歳以上の人なのです。皆さんのように、現役では元気で日本の経済や政治を支えてこられて、リーダーとなっておられた方々も、年齢とともに、突然、脳卒中等で倒れます。そうすると、倒れた瞬間から麻痺が発生し、その麻痺は一生治らない状態で障害として続いていく。つまり、障害者の大体6割ぐらいの人が、「中途障害者」です。60代の後半、70代で倒れられる方々ですから、障害者の高齢化が進んだものではなく、高齢化が進むに連れて、障害者が増えてきたとご理解をいただきたいのです。そして、諸外国と違って、日本独特の傾向として、事故等によるものではなく、食事の関係とか、いろいろなことがありまして、圧倒的に脳卒中による障害者が多くなっています。活躍されてこられた方が、突然、倒れて障害者となり、普通の生活に戻れなくなってしまう方が増えています。
 普通の生活といいますと、例えばきょうここに皆さんお見えでいらっしゃいますが、日本では障害を持って車椅子になったら、昔の仲間と会うのも恥ずかしい。外へ出るのも恥ずかしいといって、こういうところへ出て来なくなってしまう。そういう社会が今の日本です。私がポリオになった当時、戦争中ですから、多くの医者が軍医にとられ、十分な治療も受けることができませんでした。小学校に入る時に当時は就学免除という制度がありました。つまり、学校へ来なくてもいい。親の義務を免除するということで、かなり多くの障害を持った子供たちが、学校へ行く機会を失っておりました。私も危うく疎開先でその憂き目に遭うところでした。重い障害を持った子供たちも、全員就学ということで、今や誰もが学校へ行く時代になりましたが、日本では特別な学校―「特別支援学校」と言っておりますが、スクールバスで送り迎えをして、30分も1時間も車に揺られて、一つの区に3つか4つあるそういう学校にいきます。そこで授業を受けることになるわけですが、実態としては、授業らしい授業はなかなか行えない。教育の現場には、学校の先生以外に養護の教員がおりますが、先生たちは子供たちの身辺の援助、介護に追われている状態で、障害を持っている子供たちは、十分な教育が受けられない。形だけ全員就学ということが、今、日本では行われているといっても過言ではないと思います。

日本の障害者対策

 実は今回の政権交代の前に、いろいろな制度改正がありました。今年、介護保険制度もまた変わりましたし、あるいは障害者の対策も、自立支援法が出来て丸3年が経過し、改正法案が予定されましたが、最終的には国会の情勢で廃案になりました。しかし、わが国の福祉対策は概ね、みな後手に回っている状態です。
 例えば障害者の対策では、1992年にアメリカでADAという障害者差別禁止法が始まりました。障害を理由に、何ら差別をしてはならない。差別があれば訴訟できることになりました。公共的な建物、雇用の場、教育の場、社会のあらゆる場面で、障害のある人も当たり前に健常者と一緒にチャンスを得られなければならないという法律です。前のブッシュ大統領のお父さんの時代です。その結果、今や世界中の大体50カ国を超える国で、同じような差別禁止法ができあがったわけです。
 ところが、日本は、2001年に国連から差別禁止法制定の勧告を受けましたけれども、残念ながら、政府はそれを拒否に近い形で無視して、今に至っております。あるいは2006年の12月に、国連総会で障害者の国際権利条約というのが成立いたしましたが、これに最後まで反対したのが、実は日本政府です。なぜ反対したのかというと、世界中のほとんどの国が、障害のある子供もない子供も一緒に学ぶ、ということになっているのですが、日本では分離教育、すなわち障害を持っている子は別の学校に行ってしまう。従いまして、高校、大学を卒業して、初めて障害を持っている人たちに出会うというのが日本のケースです。
 そういう分離教育を日本政府はずーっと進めてきたために、統合教育を進める世界の潮流―国連の決定に反対してきました。最後に、障害者団体のいろいろな説得もあって、賛成に回ったわけですが、具体的には、それを進めるためには国内法の見直しをしなければいけない。教育にしても、雇用にしても、建築制度にしても、いろいろなことを見直さなければいけない。その整合性をとるために、非常に時間がかかるわけですが、先の国会で、そういう対応もせずに成立をさせてしまおう、いわゆる理念的において成立をさせようということを、日本政府は図ったわけです。結果は廃案になってまたそれが持ち越されて、新政権に課題が移されていったわけです。

社会保障の実態と問題点

 社会保障は、障害者福祉だけではありません。医療政策では、いわゆる医療費の圧縮をどう図るかが課題となっています。何しろ、年間に34四兆円かかっている。そして、毎年、1兆円ぐらいずつ増えているわけですが、それを抑制するということで、後期高齢者医療制度が始まりました。あるいは療養型病床群は38万ベッドあるのを、15万ベッドだけ残して、23万ベッドをなくすという方針が出たりして、社会保障がどんどんカットされてきたのが、この4、5年の大きな流れであったわけです。
 こうした政策変化の結果、いろいろと問題が出てきました。例えば介護保険では、3年前の制度改正で、軽度の人が介護保険を大幅に削られました。2000年に介護保険制度が始まった時に、国は「介護の問題は、家庭、特に女性の責任にさせない。家族に負担をかけない。社会全体で見るのだ」と明確に宣言しました。実態としては、今や市区町村によっては、同居家族がいれば、介護保険を使わせないようなところまで出てきている。現場ではそういう状況になってきました。これは市区町村によって違います。あるいは要介護認定基準の見直しで、今まで要介護5だった人が、突然、3になったり、要介護の程度が軽く出るような仕掛けに変更しました。その対応として、厚生労働大臣が、「従来の方はそのままの要介護度でしばらく行きます」というような暫定措置をとったり、何とも意志統一、理念と実態が合わないような状態が発生しています。結局、実は財源が問題なのですがそう言わずにこじつけで制度のカットを進めている。
 他方、デンマークの例を申し上げれば、人口8万のネストベズ市ですが、市の財政は黒字。医療、福祉、教育は無料。しかし、寝たきりになったら、デンマークでは生きていけない。『デンマークには寝たきりがいない』という本を書いた人がいますが、デンマークの人はみんな、病気になっても立ち上がっているわけではなく、寝たきりの状態になったら、医療はほとんど施されない。日本のように、チューブをつけたりなどして生きている人は殆どいない。どういう終末を望むかあらかじめ希望を明らかにしている人が多い。そういう状態になったら、延命治療はしないとか、しない方向へ持っていっているわけです。あるいはカナダなどは、病院で治療を受けるのにも、6カ月待ちということで、緊急性の高い人から順番です。場合によると、病院に予約していても、受ける前に治ってしまうというような人もおりますし、逆に亡くなってしまうというケースもあるわけです。
 日本では世界でも類を見ない公的健康保険制度があって、そしてフリーアクセス。自分の意思でどこの病院にも行ける。こんな国は先進国では少ない。これがまた結果としては、医療費を非常に高額化させてしまったわけです。これは消費者サイドから見た場合には、恩典です。多くの国で、GPという主治医の制度があって、ホームドクターの紹介がなければ、病院にかかれないシステムになっています。この制度の考え方が今度の後期高齢者の医療制度では、中途半端ですが、採用されています。一方で、一番、医療費がかかる世代の人たちだけを一まとめにして、別の医療保険制度にしたというのは、社会保険の理念からすると、本質から外れているわけです。

「リハビリ日数制限」は重度障害者の切り捨て

 きわめつけは、3年前に「リハビリ日数制限」というのが導入されました。お手元の「アビリティーズ」という新聞には、「『リハビリ日数制限』は重度障害者を切り捨てた」と書きましたが、従来は期限なしにリハビリを受けられた方々、圧倒的に脳卒中の方が多いのですけれども、この方々が180日を限度に、健康保険制度を使ってのリハビリは受けられなくなりました。障害別に日数制限を設けたわけです。脳卒中の場合には180日。これに対して、多田富雄先生という疫学の世界的大家の話を紹介させていただきます。
 この方は東大の名誉教授ですが、3年前の3月の下旬に、突然、医師から、「多田さん、あなたには4月から病院でリハビリを提供できません」ということで、通院することを禁止されました。それは「日数制限」が始まったからです。既に先生は180日を超えている。しかし、少しずつ少しずつよくなってきていたのです。そして突然4月からリハビリを受けられないということになりました。
 いろいろなケースがありますから、一概には言えませんが、簡単に申し上げれば、脳卒中を発生した時に、まず救急で病院に運ばれます。急性期の病院ですから、手術を受けたり、緊急の対応をいたします。ここには基準として大体2週間しかいられないので、2週間以内に転院しなければならない。そのあとは、回復期リハビリ病院では集中的にリハビリを受ける、これが最も理想的なステップです。これは今、全国に6万ベッドしかありませんから、入院できるかどうか競争です。しかも回復期リハビリ病院に入院できるのは、発症してから2カ月以内。60日以内にそこにたどりつかないと、永遠に回復期のリハビリを受けることができません。入っても、2カ月から、3カ月しかいられない。そして、発症後6カ月たったら全て打ち切りということで、あとは介護保険の制度を使ってください、ということになってしまったわけです。
 多田先生は、少しずつ少しずつよくなってきておりました。しかしここで打ち切られたら、もう自分は体が悪くなるばかりだということで、ご自分で呼びかけて、なんと48万人の署名を集め、厚生労働省にその署名を出しました。結果的には何の効果もありませんでした。そして、「180日制限」が立派に動いています。一部、手直しがありますが、たいしたことではありません。
 2005年現在で、75歳以上の高齢者の割合が人口の約10%。1200万人ぐらいいます。これが2050年になりますと、大体20%ぐらいになってくる。この75歳以上が、後期高齢者と言われるように、脳卒中などでいろいろな障害を持つ方が多いわけです。ここに対する対応がどうなるか、医療制度、介護保険制度がどうなっていくか、国民の医療、福祉サービスが、質量ともにマイナス方向に流れている現状です。
 現況を申し上げますと、高齢者のうち、介護保険制度で介護のサービスを受けている方が、大体400万人。この方々は、障害を持っている。どこで生活をしているのかというと、施設を利用している方が約100万人。介護保険の施設は3施設で、特別養護老人ホームと療養型病床群と老人保健施設。この3つは介護保険で使えるわけですが、このベッドが約100万ベッドしかない。ということは、現状で申し上げても、300万人は在宅で生活しているわけです。その在宅で生活している人の介護保険制度を、市区町村によってはどんどん切っている。これはかつては国が統一基準でやっていたのを、基本的な枠組みだけをつくって、都道府県と市町村にみんな投げてしまったからです。従いまして、財政力のある市町村のサービスレベルは高い。東京でも、府中市とか、武蔵野市などは、介護保険の枠を超えて、別枠でもいろいろなことをやっています。しかし、財政の苦しいところは、それができないということで、同じ国民なのに、住んでいるところによって、受けられる福祉が大きく違ってきたわけです。
 障害者の制度も同じです。65歳以上の方で脳卒中などで倒れた人の場合には、まず介護保険制度を使います。そして足りないところは障害者の制度を使うことができますが、これも市町村によってだいぶ違ってきました。このように、現在、地方にいろいろな行政がどんどん投げられている結果、同じ国民でありながら、住んでいる地域によって、今、大きな差がつきつつあるわけです。特に障害者の対策については、障害者の施設が全然ないという市町村もある。これは大変な問題です。そういうことに目をつぶって、この約10年くらいの間、福祉制度が大きく切られてきたというのが現状です。

障害者も納税者になれる

 実は私は高校を卒業する時に、一度、就職をすることにしたのですが、100社以上の会社から、試験を受ける前に、障害を理由に書類が送り返されてきました。後に早稲田大学を卒業と同時に、障害者6人で今の会社を始めました。その時に、ソニーの井深さんや、いろいろな方々が賛同してくださって、障害のある人たちを中心に、わずか150万の資本金で会社を設立しました。障害者の雇用を進め、今に至っているわけです。
 今、日本では40代、50代でも倒れる方がいっぱいいます。一度倒れれば、もう従来のステージから降りていく今の日本の社会に対して、非常に問題を感じております。どんな大変な障害を持っている人でも、できないと思われている人でも、チャンスがあればできる人はたくさんいます。そういう人たちが当たり前に働ける仕組みをつくりあげることが、大変大事です。倒れてしまえば、もう会社へも出て来られない。一方で、今、リハビリの制度がどんどん縮小されております。
 当社では、例えば自動車事故で頸椎を折って、指も利かない人が、キャドを使って建築や機械の図面も書きますし、あるいは筋ジストロフィーで自分の身辺の始末も十分にできない、通勤もできなくなった人でも、通信回線でつないで、在宅でベッド上で、コンピュータのソフトをつくっている人もおります。そういう具合にして仕組みをつくれば仕事を当たり前に、できる人はいます。
 当社を昭和41年に始めたわけですが、昭和46年に、労働大臣になったばかりの原健三郎さんにお会いする機会がありました。原健三郎さんが、『週刊文春』の「この夏、薦める3冊の本」に、私の翻訳した『敗北を知らぬ人々』という本の推薦を書いてくれました。さっそく、「お礼とともにお会いしたい」と手紙を書きましたら、すぐ会ってくださいました。そして、私どもがやってきた障害者による会社で、5年間利益をあげて税金を払っている、障害を持っている人たちが、補助金を受けて生活をしているのではなく、働く場とチャンスがあれば、きちんと納税者になれるのだということを、過去の決算書を持って説明しました。そして、障害者の雇用対策を何としてもやって欲しいと申し上げました。その時に大臣は、新たな対策をつくる大臣指示を出しました。そして、昭和50年に議員立法で今の障害者雇用雇用促進法ができました。
 そこで障害を持っている人たちが社会で働けるようにするにはどうしたらいいかということで、当社は福祉用具の開発を始めました。
 最初は皿とスプーンをつくることから始めました。手のない人、不自由な人は、朝、どうやって食べて出勤ができるか。あるいは当時はなかった電動車椅子も開発しました。いろいろなものを次々につくってきたわけです。ところが、実際には、私どもへの注文は圧倒的に高齢者の介護のための機器の注文が来ました。それはそのころから、日本の高齢化問題が浮上していたのです。

アビリティーズの運動とは?


 昭和41年にアビリティーズ運動を始めた時に、「綱領」を打ち出しました。
 「わたしは平凡な人間でありたくない。非凡な人間としてできれば”保障”よりも”チャンス”を選ぶこと…これこそわたしの願いである。
 わたしは国家に養われ、卑屈で、怠惰な人生をおくることに満足できない。わたしは、夢をえがき、計算された冒険の道を求め、建設しつづける。
―たとえそれが成功しようとも、失敗しようとも」(以下略)
 こういうスローガンを打ち出して、これに合うサービス、製品をつくり、43年になります。今に至るまでいろいろな方々の応援をいただきながら、やってくることができました。
◇今、これがようやく産業になってきたわけです。特に介護保険が始まって、この業界にドッと新しい企業が参加してきましたが、私どもは介護保険が始まる30年以上前から、機器の開発を他社よりも早く始められました。私が企業への就職を断られたところから、別の道が得られましたので、断られることもチャンスだと(笑)、と感謝しています。
◇私どもの運動の狙いは、障害を持っている方が、当たり前に働ける社会にしようということで、これは昭和58年に仙台で始めたブックセンターですが、ジャスコの岡田卓也名誉会長(当時・社長)に私がお願いして、共同出資で会社をつくりました。アビリティーズ・ジャスコ株式会社という、重度の障害者が中心になって働く郊外型のブックセンターを、仙台につくりました。

まとめとして

◇デンマークでは、入院期間が4・5日になっておりました。わが国も医療がどんどんカットされて、家で住み続けられるような仕組みを、どうしたら住み続けられるか、社会全体で考えなければいけない時代になってまいりました。
 皆さんも、もし倒れたらどうしようか、ということをお考えになっておられるでしょうか。家族の世話は期待できません。施設にもなかなか入れません。そして、交詢社さんのこういう会にも、出てこられるようにするのことが大事です。倒れて車椅子になっても、みんなと時間を共有するような、そういう社会のあり方、過ごし方が大事です。
◇今の私どもの狙いは、障害者差別禁止法をつくる運動の展開を、国会を中心にしてやっております。
 高齢者の問題は、誰もがたどる道です。そして、どこで生きて、どういう生活をして、最後、満足した人生を得られるかということは、国がやってくれるわけでもなし、また個人だけでも難しい。その中で社会全体で考え、つくりあげていかねばなりません。

伊東 弘泰(いとう ひろやす)
 日本アビリティーズ協会 会長


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