小売業に障害者の雇用を ブックセンター『スクラム』の開店

2019年10月07日

#

1.小売業に障害者の雇用を

 1983(昭和58)年4月29日、宮城県泉市(現仙台市泉区)の上空に、「ブックセンター『スクラム』開店、どうぞよろしく」という大きなアドバルーンが、朝早くからいくつもポッカリと浮かんでいた。日本アビリティーズ社とスーパー大手のジャスコ株式会社(現、イオン)が提携して、3年8ヵ月をかけて準備してきた、わが国初の重度障害者10名が働くモデルストアの開店である。

 かねてから、心身に障害のある人たちが主体となって運営するモデル的なストアを是非ともつくりたいと考えていた。というのは、百貨店やスーパー等小売業界は、当時障害者雇用が最も遅れていた業種のひとつであった。また雇用されていても、たいていは電話交換手や事務部門など、目立たない裏方に配置されていた。障害のある人が販売の前線に配置されていなかった。

 1981(昭和56)年の国際障害者年のテーマ『完全参加と平等』が示す通り、障害のある人もない人も、共に生活できる社会のあり方が、「正常」であると考えられるようになってきたが、その頃の障害者雇用の状況は違っていた。とくに「販売」等の接客業務では障害のある人たちが配置されることなど考えられていなかった。

 それまでもモデルストアの構想をいくつかの百貨店、スーパーの経営者の方々に話したが、誰もそんな話にのってくれることもなく、具体化できずにいた。

 当時、海外でも小売業界での重度障害者雇用は進んでいなかった。

2.ジャスコの協力で具体化

 1979(昭和54)年に雇用促進事業団(当時)から委託を受けて、日本アビリティーズ社は一般企業への就職につなぐために、障害者への職業訓練を行なうアビリティーズビジネススクールという事業を行なった。4ヵ月間、集中的に訓練し職業安定所の協力も得て、就職させる新しい就労促進システム実験事業であった。修了生のひとりが当時のジャスコさんに採用されることになった。それがご縁で同年10月、岡田卓也社長(現名誉会長)にお目にかかった。初対面の岡田社長に、モデルストア構想をお話ししたところ、

 「それは大変意義のある話ですね。できることならやりましょう。応援します」

と賛意をいただいた。

 この「できることなら」という言葉は、私のアイデアが現実に「成り立つ」ことの確認を求められた、と思った。

 翌11月に当時ジャスコ常務であった植田平八氏(のち副社長)を委員長に、ジャスコとアビリティーズの両社によるプロジェクトチームを発足させた。アビリティーズ側の主要メンバーとしては私のほかに、車いすの弁護士として著名で、アビリティーズ運動を共にやっていただいてきた村田稔氏も入り、両社で8名ほどの体制でスタートした。

 チームは、ジャスコの大型店等を視察、重度の障害のある人たちが働ける売場はどこか、問題点は何か、といったことを入念に調査してまわった。ジャスコの神奈川・大和店や千葉・稲毛店といった大型店の商品搬入口に真冬の早朝5時頃から立ち、時間の経過とともに、トラックで運ばれてくる商品がどんなものか、詳しく調べた。厚く着込んでも足下からくるしんしんとした寒さになんとか耐えながら、調べていった。

 また、日本アビリティーズ協会の会員の人たちにも協力していただき、さまざまな売場で商品を扱う実験を行なった。協力してくれたのは車いすや松葉杖、装具等さまざまな補装具を使用していた人たちだった。こうした売場での作業実験は、その後の計画づくりにとても有効だった。どんな売場でどういう商品なら扱えるか、働くことができるかを明らかにしていった。

3.新会社設立、立地探し

 書籍やカセットテープ、レコード等のサウンド商品は、障害のある人たちにとって最も問題が少ないもののひとつだということがわかってきた。他の商品グループでも有効と思われるものがいろいろあった。

 取扱う商品が予定されたあと、小売店としての基本コンセプトを固めた。私の狙いは次のような点であった。

①我々の店は特定の商品群に限定し、専門店として営業する。
②その地域で規模において有数の店であること、できれば地域一番店であること。
③障害者が働いているからといって慈善的、福祉的な雰囲気ではなく、優れた商品とサービスを求めて市民が買い物に来てくださる「普通」の店であること。
④からだになんらかの障害のある店員でも、仕事をすることにおいては、支障のない設計の店であり、またお客様にとっても便利であること。

等であった。

 プロジェクトチームによる調査、検討は仔細に行なわれた。「これはできる」と確信を深めていった。ジャスコの植田さんは、前向きで、プロジェクトがうまく進むようジャスコの社内にも協力するよう、いつも指令を出してくれた。氏は我々と同じ考えであり、すべてにおいて積極的であった。

 プロジェクトチームが動き出して一年後、確信に満ちた結論をまとめた。岡田社長の承認もいただき、両社の共同出資によるアビリティーズジャスコ株式会社を設立することになった。1980(昭和55)年12月のことである。岡田社長にお会いして、1年3ヵ月後であった。

 それからは店舗の立地探しのため東奔西走が始まった。民間のデベロッパーへのコンタクトはもちろん、スタッフは連日、幹線道路を車で走って、これはと思う土地をみれば地主を訪ねた。東京、埼玉、神奈川、千葉、栃木県など各自治体の障害者雇用担当課を訪ね、公有地の借用の可能性も打診した。しかし、お役人は「障害者が大型専門店をやる」という計画を聞いて、そんな計画が実現するとは思えなかったようだ。

 土地探しに明け暮れて一年、物件はいろいろあったがいずれも決定にいたらなかった。計画と現実のギャップの大きさは想像以上だった。

4.岡田会長の配慮で仙台へ

 具体的な土地の当てがなく、虚しい活動の合間、労働省の障害者雇用担当課を時折訪ね、状況報告は欠かさなかった。気落ちしている我々を、当時の若林之矩課長(のちに事務次官)はいつも激励してくださった。我々の店づくりの考えに最初から共鳴し、協力的だった。氏は、1971(昭和46)年に私が原健三郎労働大臣をお訪ねしたときにお目にかかったのが最初だった。

 挫折の念が強くなっていたとき、岡田社長から、宮城県泉市(現仙台市)のジャスコの遊休地を使ったらどうか、との提案をいただいた。このプロジェクトを気にかけてくださっていたのだ。

 泉市はのちに仙台市と合併するが、当時ベッドタウンとして開発が急速に進んでいて人口が急増していた。当該地は、福島と盛岡をつなぐ4号バイパスに面していた。10年も前に営業を停止した30レーンのボウリング場が朽ち果てるように建っていた。屋根は一部はがれ、雨に打たれたレーンの板は大きくめくれあがっていた。駐車場のスペースも広かった。

 このプロジェクトのためジャスコから派遣されていた古沢準一君は早速、市内のホテルに泊まり込み、ジャスコの開発部門の協力も得て数日かけて詳細に商圏調査を行なった。彼から来る日々の電話での報告はこれまでにない明るいものだった。我々は元気を取り戻した。長い船旅の果てに一つの孤島を見出したような気持ちだった。

5.書店組合の猛烈な反対

 この旧ボウリング場の跡地は、私たちの計画にぴったりであった。それまで候補地を求めて関東一円を走り回っていたのだが、一転、第1号店開設を仙台に決め、具体的な開設計画に入った。

 建物の一部をジャスコさんから買い取り、さらに増改築して書籍、テープ、ビデオ等の売場とし、ボウリング場の六レーン分をゲームコーナーとすることになった。残った24レーン分はジャスコさんが地元の会社に貸し、ボウリング場を再開、当方のブックセンター、ゲームコーナーと一緒に営業開始することとなった。

 総工費1億8千万円のうち1億円については、日本障害者雇用促進協会(当時)による助成が決定した。しかしこの助成を受けるためには、地元業界から私たちの店の開設について、同意書を得ることが条件となっていた。

 当時の泉市商工会で説明会を開いたところ、地元書店組合から猛烈な反対を喰らうことになった。当時、東北新幹線はまだ開通しておらず、村田稔弁護士、古沢準一君そして私の3人は、毎週のように車で東京・仙台間を日帰りで往復することが始まった。その後数10回も仙台に通うことになった。

 早朝4時、渋谷のアビリティーズ本社を出発、東北高速道をひたすら走り、宮城県庁に9時に到着する。県庁舎は昔からの古めかしい建物でエレベーターがなく、長い階段を車いすの村田先生と杖の私は苦労して上がらねばならなかった。障害者雇用の所管課にあいさつをしたのち、書店組合との団体交渉に臨んだり、各書店を回ったりした。それが夜遅くまでになるのは珍しくなく、東京に戻るのはいつも深夜の12時、1時だった。

 書店組合との話し合いは1982(昭和57)年の早春から始まった。皆さんは我々に、次々と厳しい言葉を投げかけた。

 「障害者が店をやるなんてできるわけがない。じきにつぶれて、そのあとジャスコが出てくるのだろう。ジャスコの身代わり出店に違いない」

 「我々がやったって本屋は大変なんだ。障害者にやれるわけがない。」

 「障害者は福祉手当や障害年金を貰ってるだろう。我々だってボランティアで年に一回はドライブ旅行などで応援している。こっちの商売まで邪魔しないでくれ」

 これらの意見に対し、私たちはひたすら丁重に頭を下げ、丁寧に説明を繰り返し、お願いをし続けた。

 「障害者もあたりまえに仕事につきたいのです。できることなら皆さんの援助に頼らず仕事をし、自分で給料を得て、生活したいのです。税金で養われるのではなく、納税者の立場に立ちたいのです」

 私たちは一歩も譲らず、自立をめざすアビリティーズの哲学をもとに語り続けた。書店組合との団体交渉だけでなく、各書店を訪ねてお願いしてまわった。個別訪問でも相当なことを言われたが、そのうちビールを出してくれるような人も出てきた。しかし、個人的には多少変わっても、団体交渉では書店組合、泉市商工会は強硬な姿勢をとり続けた。

 秋を過ぎ、冬が到来した。地元書店組合との話し合いはなんと十か月にもわたり、その間、我々は頭を下げっぱなしだった。その年も終わりに近づいた12月半ば、宮城県の担当課から、「地元業界の同意書がなくても建設計画を進めて良い」と、突然電話があった。

 当時、県の担当所管である商工労働部は書店組合、商工会などの強い反対をみて、立場上だろうが、中立的な姿勢を貫き、決して我々に好意的ではなかった。反対のために計画が頓挫するかもしれないことを懸念して、労働省が県に働きかけてくださったに違いなかった。

 結局、地元業界の同意書のないまま、店舗建設が始まることになった。当時は、障害者が当たり前に働くことについて、市民や産業界の合意形成を得るために、このような不合理な対応を私たち自身がしなければならない時代であった。

6.ついにオープン

スクラム店内(1983年)

スクラム店内(1983年)

 1983(昭和58)年4月29日。ブックセンター「スクラム」の開店当日は、朝からいつ降り出すかわからないような天気だった。ところが十時の開店前に2、3百人もの人たちが列をなして待っていてくださった。そして扉が開くと同時にたくさんの人が押しあいへし合いして入ってきて、店内はたちまちいっぱいになっていた。

 書店組合の反対で長い間着工できずにいた事情をよくご存知の方も多く、みなさんが開店を祝ってくださった。たくさんの方が「開店おめでとう」と言ってくださった。嬉しかった。子供たちも何のためらいもなく商品を手に取り、レジや売場の車いすの障害のある店員たちと違和感なくやりとりしている。そんな光景が繰り広げられた。

 書店組合の反対を受け、立ち往生をしていた頃、ジャスコの植田平八さんは、

 「このように反対を受けた店は大丈夫。反対が強い店ほど開店すればうまくいきます」

と私たちを励ましてくれた。

 目途さえ立たずにいた頃、NHK仙台放送局は30分もの特別番組を放送してくれた。私たちの考えや事業の計画、そして書店組合側の意見など、客観的に報道した。また開店直後にも取材に来られ、再び30分番組にまとめて放送してくれた。

 その時のアナウンサーは、のちに「NHKのど自慢」の司会を担当した宮川泰夫さんだった。義憤もあらわに取材をされ、書店組合との話し合いの場では、双方の考えの違いを鮮明にした。

 一方、地元の最有力紙は非常に冷たく、論調は完全に書店組合側で、残念ながら障害者雇用に全く無理解だった。紙面から社会正義を感じられなかった。しかし報道のあり方に違いはあっても、こうしたマスコミのお蔭で、地元の方々は事情をよく知っていて、開店を心待ちにしていてくださったのだ。

 「スクラム」という店名は、プロジェクトチームの一員としてずっと苦労を共にしてくれたジャスコ社員の古沢準一君の提案であった。障害のある人もない人も共にスクラムを組んで働こう、という想いを込めたすばらしい名前だった。彼は考えぬいた揚句、仙台から私に電話をくれ、

 「すごくピッタリの店名を思いつきました」

とはずんだ声で伝えてきた。

 スクラム1号店は重度の障害者十名、パート社員5名、それに健常者の社員3名、あわせて18名で開店した。売場面積500平方メートル、それにゲームコーナー。駐車場は120台分もある、当時ではまだ珍しい本格的な郊外型ブックセンターであった。

 十か月間もの書店組合との話し合いの最中、内定者からひとりの辞退もなく、自宅で決着を待ち続けてくれた。またジャスコの方々は、店員としてズブの素人の彼らを、包装の仕方、レジの取扱い、商品管理、それに挨拶の仕方まで熱心に教育してくださった。なにしろ初めの頃、「いらっしゃいませ」、「ありがとうございました」などという当たり前の言葉が出てこず、皆、口の中でモグモグ言っていたのだ。

7.2号店も開店

 スクラムはお客様に支えられ順調に発展した。1年目の売上は約2億円。そして2年目は3億円を達成、早くも書籍だけで利益を計上、納税もできるようになった。数年後には10億円の売上を達成、親会社のジャスコと日本アビリティーズ社に株式配当を支払うまでになった。重度障害者が中心になって働くモデル店舗は、岡田社長の賛同とジャスコの皆さんの協力を得て見事に成功した。

 ところで、このプロジェクトを始めてから開店までの三年八か月の間、私はこの店づくりのため、本業を相当犠牲にしていた。開店までの約4年間、日本アビリティーズ社の売上は停滞し、利益も大幅に減少した。アビリティーズ社にとって、スクラムを産み出すまでの代償は極めて大きかった。

 しかし、これをご縁に、岡田社長はアビリティーズ運動の強力な後援者となってくださった。ジャスコ(現、イオン)は日本アビリティーズ社の3番目の大株主として、今も私たちの事業にご協力くださっている。

 1983(昭和58)年の1号店開設以来28年間、今に至るまで、北海道や東北各地にも開設したが、決して順調に来たわけではない。現在東北に7店舗を有するが、兵庫県香寺の郊外型店舗、札幌のインストアなどのように、大きな投資をして開店したものの計画通りには進まず、撤退することになったものもある。

 現イオンの障害者雇用特例子会社として設立したアビリティーズジャスコ株式会社は、創業の頃から約10年間、私が社長を務めていた。しかし、アビリティーズ運動の拡充のため、多忙を極めるようになったことから、その後はイオンさんから社長を出していただくことをお願いし、私は取締役相談役となった。今も双方から役員を出して経営に当たっているが通常業務はほとんどイオンさんに依存している。小売業界は厳しい競争が続き、経営は容易ではない。しかし第1号店に入社した障害者の人たちは、今では、取締役、店長など幹部社員として活躍している。彼らはアビリティーズの精神を心底に帯している。

 障害のある人たちが中心となって運営する本格的な専門店「スクラム」は小売業界の重度障害者雇用のモデル店舗として成功したが、いまだ同様の本格的な店舗は他にはできていない。小売業界での障害者雇用は残念ながらあまり進んでいないようだ。

 アビリティーズ運動は創立以来、「保障よりも働くチャンスを」をスローガンに重度の障害のある人たちが職業能力を発揮できる場面づくりをしてきた。たとえ心身に障害があっても差別や隔離されることなく、たった一回きりの人生のシナリオを自らで描き、演じたいのである。

スクラム開店10周年記念(1993年6月)

スクラム開店10周年記念(1993年6月)

この記事へのお問合せはこちらから。下のボタンを押すとお問合せフォームが開きます。

Share:
ニュースレターを講読